今日13日は私の誕生日です。
私は終戦後の1949(昭和24)年4月13日に埼玉県入間郡東吾野村(現飯能市)で大野治平、妻やすの長男として生まれました。しかし、私には兄がいます。私は戸籍上の長男です。母は戦争未亡人でした。戦後は戦争で大切な夫を奪われた女性が数多く存在しました。母もその一人です。最初の夫の大野新平は幼い我が子と妻を残し、太平洋戦争が始まった1941年に出征し、農協のオート三輪車の運転手をしていた経歴から陸軍の自動車部隊に配属されたそうです。無事の帰還を祈る日々でしたが、終戦間近の1945年7月、ビルマの渡河作戦従事中に戦死したそうです。母は戦死した新平の弟である治平と再婚し、3人の子どもを儲けますが、母に不幸が再び訪れます。3人目の子どもの出産を控えた1953年、父治平は病気で亡くなりました。私は4歳になったばかりでした。生まれた弟は父親の顏を知りません。父は会社員でした。
母は子ども4人を女手ひとつで育て上げました。父が死亡した直後から、臨月のお腹を抱え、畑仕事、家畜の世話、洗濯、炊事に体を休めることはできなかったそうです。現金収入を絶たれた母は弟を出産した後も休む間もなく、一家を養うために働かねばなりませんでした。東吾野村は山村です。わずかばかりの畑と家畜を飼い、自給自足の貧しい生活でした。現金収入は遺児の兄に国から支給される遺児年金だけが頼りだったそうです。お米だけのご飯が食べられるようになったのは私が19歳になってからです。
我が家も貧乏でしたが、当時は周りの家も同じような生活水準だったような気がします。子ども時代は自然の中で良く遊びました。
春は近くの山にワラビやフキ、ウドなどの山菜取りによく出掛けました。近くを流れる高麗川(写真)で魚釣りや魚とりは楽しかった思い出ばかりです。この時期はカジカの卵とりを行ったことを覚えています。カジカは岩の下に卵を産み付けます。川に入り、岩を裏返すと黄色の塊の卵を見つけることができます。これがまた美味しいのです。
昨年はコロナで父母の墓参りにも1回いっただけでした。
今年は四季折々に墓参に生きたいと思っています。